あなたは人を殺すことができる人か。
それが可能かどうかを問うているだけで、それ以外の他意はない。普段、意識することなどないであろう『人の生き死に』について、考えることがある。
個人的な結論としては、『結果的に』誰もが可能であると思う。勿論、その自発的な意志を持つ人は社会不適合者であると思うのだが。結果的に、というのは、極限状態に追い込まれるなどの通常あり得ない精神状態に陥ってしまった時に可能になる、と思う。
「カルネアデスの板(Wikipedia)」を考えてみる。詳細はリンク先に譲るとして、このとき、果たして本当に相手を突き飛ばして自分が助かることができるだろうか。法律上、これは「緊急避難(Wikipedia)」が適用される例であり、罪には問われない。そうと分かっていても、しかし実際の場面に遭遇した場合、相手を殺して自分が助かることができるだろうか。
また、一方が死ねば一方が助かる、という場合を考える。この場合に法律云々は関係ないとする。たとえば、火事で二人の重傷者を目の前にしたとき、自分が一人しか運べないということが前提だとしたらどうすればいいのだろうか。それ以外にも、「バトルロワイアル(Wikipedia)」のような状況ならどうだろう。他人を殺して自分が生き残ることができるだろうか。
火事の例えでは、いわゆる「殺人(Wikipedia)」には当たらないかもしれない。が、ここで言いたいのは厳密な殺人の解釈ではなく、『自分が手をさしのべない限り、その人が死ぬと分かっていながら見捨てることができるかどうか』ということである。根本的に、精神力の問題だ。
先に述べた個人的結論の通り、私は結果的に誰もが可能だと思っている。自他の生死という問題において、やはり自分を優先して然りであるとも思うし、だからこそそのような例外的適法が認められているのだと思う。
しかし、それは本当にそうなのだろうか。自分なら可能なんだろうか。個人的な見解としては可能と述べているものの、自分に置き換えてみたときにいまいち断言できないところがある。火事の例では、どちらか一方しか助けることができないというある意味等価な二択を迫られることになる。それとも、単純に自分以外を見限ることができるのだろうか。
今まで、コレといった結論が出たことはない。個人的結論での一般論としては可能としているものの、自分に当てはめたときには一概に可能だと思えない。分からない。たぶん、その時になっても迷っているんだと思う。その程度の精神しか、私は持ち合わせていないから。
暇なとき、思索にふけるとき、自分を見つめ直すとき、いつもこの問いが頭に浮かぶ。
私は、貴方は、人を殺すことができますか?
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