以前に記事を紹介したアホヲタ法学部生の日常様に記事について私見を述べさせて貰ったところ、望外のコメントを頂き理解を深めることが出来たことに加え、私が誤解していた部分もあったので補足的にエントリを残しておこうと思います。
法解釈の難しさとして真実と食い違う可能性をどう補填するのかと言及しましたが、もうちょっと丁寧に考えればそれは理系の難解さにも言えるような気がしています。実際、理系でいう真実は『真実と見なしてもいい程度の仮定的事実』であることが多く、その仮定を暗黙的了解として論証することになります。例えばアインシュタインの相対性理論などは、現在の実証実験において矛盾が見られないから支持されているに過ぎないというわけです。しかしそれでも理論物理学では相対性理論に基づいたシミュレーション実験などが為されています。一方、ニュートン力学は天文学的レベルの議論においては適用できませんが、地球上の事象程度のスケールであればニュートン力学で近似しても問題はないということが分かっています。なので、
法学においては、「訴訟法的真実(=訴訟においてこれが真実だと認められた内容)」というのは「実体的真実(実際の真相)」に「できるだけ近づかないといけない」が、違いうることは前提とされています。「できるだけ頑張って。でもできるだけ頑張ればそれでいい。」位のイメージでしょうか。
というのは理系での議論の際にも言えるのではないかと思うのです。相対性理論が確立する以前はニュートン力学が絶対で時間は不変であり宇宙は変わらないというのが『真実』だったわけですが、今の『真実』は相対性理論なのかもしれません。これもまた、数十年数百年後には修正されるでしょうし(量子力学との統合を含め)。
実際は、法律的結論については、あんまり弁護士や検事がなんといっても意味がないことが多い(裁判所は判例に従うので)ので、むしろ「何が事実か」の面が弁護士や検事の「頑張りどころ」であり、これを「面白い」ととるか「こんなあいまいなものなんて嫌い」と思うかが、文系理系の分かれ目になるような気がします。
『何が事実か』というのは理系の研究者でも重要な命題として挙げられるので、やはり理系文系の差異としては少し違うのではないかと感じます(コメントでのこの法学的概念の言及を見てはじめて感じたことですが)。差異や難解さを感じるのは単に専門外の人がテクニカルタームに対して理解が及ばないだけであり、それは本質的な差異ではないと思うからです。また、理系の論証アプローチとしてオッカムの剃刀がありますが、これは『現象を同程度うまく説明する仮説があるなら、より単純な方を選ぶべきである』というもので、法学やその他の学問でのアプローチでも言えることではないでしょうか。
論証過程が共通であるとすれば理系と文系の差は何なのか、というのが自然と浮かんでくる疑問ですが、これは『結論に対する社会的な要請の違い』ではないかと思います。理系では仮説は仮説であり、ある一定期間以上その仮説に矛盾がなければ暗黙的にその仮説を『事実』として認めていることが多いですが、その期間に明確な規定などはありません。一方、裁判では最終的に判決を下さなければならないので、ある事件の結論に対して時間の制約がつくことになります。有名な『フェルマーの最終定理』のように数世紀以上にも渡って研究される仮説は、理学においてはあり得ますが、法学などではそれが困難なのではないかと。法律には歴史的経緯や文化の違い、時代背景など人間的社会的側面が強く影響するので、なおさら難しいのではないかと思います(※理系でも理学か工学か、文系でも文学か法学か等々といった学部の違いによっても差は出てきますが。ここでは議論の焦点が元々法律と理学だったことを付け加えておきます)。
「理系にとっての文系の論理の難しさ」と「文系にとっての理系の論理の難しさ」はパラレルに考えられる気がします。
パラレルというか本質的には同等なものなんでしょうか。テクニカルタームに対する拒否的感情が先行するだけで。最終的には理系文系という分類の仕方がそもそも妥当ではなく、学問という大きな括りでの専門的な細かい差異というようにも感じられます。
Comment