「指導教官に修論を書いてもらう」ことの是非(slashdot.jp)
記事と元のはてなエントリを眺めて、情報が多少曖昧なところもあるので話題にしようかどうか悩んだけども、自分にも無縁とは言えないネタであるし、とくにその他書くネタもないので雑感をぼちぼち書いてみることにする。
まず、タイトルは割とミスリーディング気味であることに注意。「修論を書いてもらった」のではなく、「修論を書き直してもらった」のであり、また「投稿論文を書いてもらった」のである。大学院に興味がない方には違いが分かりづらいかもしれないが、修士論文(学部の卒業論文、博士論文も含む)は単著、即ち本人のみの名前で書くことが原則となる。なので、他人からの助言(教員による修正もこれ)は受けるものの、基本的には全部本人の責任で執筆、提出することになる。当然、代筆の修士論文などは明らかに問題となる事例。しかし今回の場合、論文の骨子は本人が書いているので、本人は違和感があるかもしれないけども、修士号剥奪などの問題には該当しないだろう。
一方で投稿論文は、学生なら特にそうなるが、学生と教員との共著になることが多い。共著の筆頭著者が論文に対する責任をもつことが多いが、学生と教員の共著論文であれば必ずしもそうとは限らない。学生が卒業後、教員が筆頭著者、学生が共著者として、教員が学会誌に論文を投稿することは珍しいことではない。その際、教員が論文を一から書き直すことだってあり得ないことはないし、むしろその方が多いかもしれない。私の知っている限り、この形式で出版される論文が問題になったという話は聞かないし、問題だとも思えない。元のはてなエントリでは投稿論文に関する話が若干曖昧なので、問題になるケースかどうかは不明。共著者に連絡を取らずに勝手に投稿するのは問題になり得るが、仮にそれが発覚しても学会誌編集側からの厳重注意程度で終わる可能性が高い。そもそも共著者になっていない可能性もあるが、その場合は勝手に自分の研究を論文化、投稿されたことが問題であって、今回の話とは別になる(そういう教員が存在することはよく耳にする)。このはてなエントリの人がどういうケースだったかは分からないが、エントリで自虐的になるほど卑屈にならなくても良い気がする、というのが個人的感想。
論文に関する話題は、はてなエントリの人がいうほど問題ではない。修士卒業に関しても、これ以上に黒い話を聞いたことがあるからかもしれないが、特別問題にならないと思うケース。むしろこうなるに至った過程を反省するほうが重要だと思う。
エントリでも言及されている「分からないことを訊くことができる」能力は、修士論文以降の研究遂行能力として必須だろうと思う。優れた人ほど、的確なタイミングで質問し、自分の糧にしているようにみえる。ここで重要なのは、他人から見て優れた質問かどうかはどうでもよくて、自分の糧になる質問なのかどうか、だろう。基本的な質問をすることを恥ずかしいと思うのは理解できるけども、知らないことを知らないままにしておくことも問題。独力で解決できればおそらく問題にはならなかったんだろうけど、解決できないことを抱えたままにされると厄介なことになる。聞くは一時の恥、聞かぬは一生の恥、とはよくいったものだと思う。
さらに大学機関側の問題として、問題を抱えた学生をなんとか救済して卒業させなければならない。この理由として、企業から内定をもらった学生を、修論不備で留年させると訴訟にまで発展しかねず、そうまでいかなくとも企業や保護者(大学院生なら成人してるだろうから保護?という気持ちになるが)から苦情が来たりするようだ。そういった対処を大学が教員に押しつけたりする話も聞くので、教員はなんとか学生を卒業させようとする。一般的に見て、その学生が卒業の水準に達していないように思えても。大学研究をとりまく環境が研究をすることに向いていない、という本末転倒気味な状況になりつつあることは、私の実感としてもおおまかに同意できる。端的に言えば、不健全な業界だと思う。
これを一挙に正す方策、なんておそらくないだろう。大学、企業、家庭、学生の全当事者の意識が変わらなければならない。ハードランディングにならないよう、政治的に、徐々に改革を進めなければ何も変わらないと思う。そもそも論として、変わる必要があるのか?という疑問もあるだろうし、個人的には変わってほしいと思うが、そうでない人も多いかもしれない。ただ、今回のように、最終的に大学院生が修士としての誇りをもてないうちに卒業してしまうなんてことが良いとは思えない。結局、今は学生側が色々な意味で賢くなるしか、対応策はないのだが……。
悶々としつつ、なかなか考えさせられる記事でした。
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